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<27>監禁状態と誓約書(後編) [過去から現在へ]

義姉達は、出金の控えの束について一通り聞き終わると、今度は家を購入する為にと渡してくれたお金について話すように言いました。姑は、あのお金は、こうにあげたのではなく預けていただけだなのだから、全額返してくれと義姉達に言付けていました。

私は、離婚までのお金の流れについて、義姉達に順番に説明していきました。
・自営業が行き詰っていた際の借入や国庫金の返済にあてたこと(姑の了承を得ている)。
・こうが、自家用車と商用車を買い替えたこと(商用車については姑の了承を得ている)。
引越しの際の敷金・改装・一部電化製品の買い替えなど(これも姑の了承を得ている)。
・こうの機嫌を取る為に、遊興費(かなりの額でした)や仕事の道具などに使ったこと。
・子ども達の服を買ったりしたこと。
・家の資金だけでは足りなくなって、仕方なく私の実家からも援助してもらったこと。
・こうの無理な人事の為に、私の名義で借入していること。
その他の細かなことまで説明しました。

私の話を聞き終わった義姉は、「ばあちゃんが許したことに使った分と、あんたの親から出してもらった分は引いてあげるけど、残りの分と控えのある分はあんたに返してもらうから」と言いました。
「それと、あんたの名義で借入したものは、こっちは一円も支払うつもりはないから」とも言いました。
私の名義で借入した分については、給与を捻出する為とはいえ、バカなことをしたと思っていましたし、その分は自分で支払っていくつもりでした。
ですが、どうして私が、こうの身勝手の為にお金に困り、こう自身が親に泣きついて出してもらったものや、子ども達の出産祝いなどまで返済をせまられないといけないのでしょう。

家の資金についても、「ほとんどが、こうの浪費のせいで無くなったのに、どうして私が返済しないといけないのか」と義姉に問うと、「嫁のくせに、こうをコントロールすることも出来ずに、言われるがままにお金を使ったあんたに責任がある」と言い返されました。
確かに、私がこうにお金を出さなければ家の資金が減ることはなかったでしょう。
ですが、こうの欲求が満たされなかった際には、不機嫌な顔で家出をしたり、私に八つ当たりしたりを繰り返されるだけでなく、不満のはけ口が子ども達にまで及ぶのが嫌だったのです。
私に責任があると言う前に、こうをそのような大人に育ててしまった自分達の責任について、ほんの少しでも考えて欲しかったのですが・・・。

義姉達は、こうの浪費について、痛いところをつかれたのが気に入らなかったらしく、私だけでなく、私の両親までもを侮辱する言葉を投げつけてきました。
「あんたは、こうが無駄遣いしたって言って、こうのことばっかり責めるけど、本当は、あんたが隠し口座でも作って貯め込んでいるんじゃないのか。」
「離婚が決まったら、そのお金を使おうと思っていたんじゃないのか。」
「あんたの実家を新築した時期が、ちょうど、うちの土地が売れた時期と同じ頃だから、実家を建てる時にうちのお金を使ったんじゃないのか。」
などなど・・・あまりにも稚拙で酷い想像の数々に、腹が立つというよりも失笑してしまいそうでした。
(翌日、母に話すと「うちは、そんなはした金を貰うほど困ってないわ!バカにするにも程がある!」「こうの家からなんか、貰ってくれって頼まれても絶対に貰わんわ!」と憤怒していました。)

好きなだけ言いがかりをつけると、義姉は電卓を使って計算を始めました。
私に、散々説明させたにも関わらず、結局は自分の思うように勝手に返済額を決めてしまいました。
義姉が計算して出した金額は一千万でした。
勿論、出産祝いなどから、開業資金・こうの浪費分まで、全部含まれていました。
しかも、「ばあちゃん達はもう年を取っているから、早く完済してもらわないと困る」と言い、「月に50万ずつ、じいちゃん(舅)の口座に振り込んでもらおうかねぇ」と自分達だけで納得して話を進め、私にその旨を『誓約書』に書くようにとせまってきました。
私は、全てにおいて納得出来ませんでしたので、そんな『誓約書』は書けないと断りました。
「私には、そんなお金を払う義務もないし、3人の子どもを抱えて暮らしていかないといけないのに、月に50万も払えると思う方がおかしいのじゃないのか」と反論すると、義姉は全く悪びれることなく「あんたが払えないんなら、親に払ってもらえばいいだろ」と言うのです。
もともと常識など通用しない人達でしたが、全員、頭がおかしいんじゃないかと本気で思いました。

私が何よりも許せなかったのは、当事者の一人であるこうが自分だけさっさと実家へと逃げ帰り、この悲惨な状況下にいないことでした。
姑が返済を求めてきたお金の大部分は、こうに関連するものであり、私が何度も「生活が成り立たないから、少しは我慢したり勝手なことをするのをやめて欲しい」と説得し続けたにも関わらず、自分の欲求のままに暮らしたこうに対して、何の責任も問わないばかりか、こうを同席させることなく私だけを責めていることを、義姉達や姑達が少しもおかしな事だと思っていないことが、不思議であると同時に、吐き気がするくらいの嫌悪感を覚えました。あくまでも、義姉達や姑達から見たこうは、私に騙され続けた被害者だったようです。

暫くの間、「そんな納得のいかない『誓約書』は書かない」という私と、「書くまで、私達はここから帰らないし、あんたを外に出さない」という義姉達との押し問答が続きました。
そうこうしている間に、夜が明けてしまい、ずっと私に寄り添っていたひーちゃんは、ぐったりと疲れ顔色も悪くなってしまっていました。
いい加減、義姉達に帰ってもらわないと親子で倒れそうでしたので、仕方なく、義姉達が求める『誓約書』を書くことにしました。
監禁状態で書かされたこと、借用書もなく書式も正式でないことなどを主張すれば、後で無効に出来るから・・・と、そう自分に言い聞かせながら、込み上げてくる悔しさを抑えて、義姉達が満足する内容を適当に書きました。
私が、義姉達の言い分通りに『誓約書』を書いたことで、義姉達は優越感に浸っているようでした。
「ほら、やっぱり自分達の方が正しいだろう」と言わんばかりの顔で笑っていました。

『誓約書』を手にすると、今度は財産分与に話が移りました。
「家財道具は全部、ももさんにあげるから(ここで初めて「さん」付けで呼ばれました)、出来るだけ早く、ここから運び出してよ。」
「それから、生命保険の受取人は変更させてもらうし、車は2台ともうちの方に貰うから。」
お金になるものは自分達の物で、移動させるのにお金のかかる物は、私達にくれると言うのです。
財産分与についても、私とこうの間で話し合うべきことであるのにと思いましたが、家財道具があれば子ども達と暮らしていくのには困らないし、もう反論することもバカバカしくてやめました。
反論しても、義姉達は独自の持論を繰り出し、私の意見など聞かなかったでしょうから。
(後日分かったのですが、私名義の自動車保険まで、無断でこうの名義に書き換えられていました。これこそ私の印鑑や署名を偽造した犯罪だと思うのですが、保険代理店の人を問い詰めると、こう一家がお得意さんだったので言われるがままにするしかなかったそうです。)

義姉達は、私がただの紙切れになると分かっていて『誓約書』を書いたことに気付かず、全てが自分達の計画通りに運んだと思い込んでくれたらしく、満足そうにやっと私達を解放してくれました。
義姉達が押し入ってきてから、実に10時間以上が過ぎていました。
私もひーちゃんも、水分の補給どころか、お手洗いにすら行かせてもらっていないことに、義姉達が帰ってから気付きました。
2人とも心身ともに疲れ果て、寄り添うようにして仮眠しました。

後になって、義姉達によって監禁状態に置かれていた時に、警察に通報していれば助けてもらえたことを知りましたが、あの状態で警察に電話をかけることなど、到底、無理だったことでしょう。


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<26>監禁状態と誓約書(前編) [過去から現在へ]

義姉達は、母が2人の子どもを連れて帰ってくれる際に、私が玄関まで見送ることすら、許してはくれませんでした。
下の義姉が、自分の夫に「玄関を見張って、絶対にももを逃がすなよ!」と命令口調で言い、義兄は義姉に言われるまま、玄関に立っていました。
母達が帰った後も、暫くの間、義姉達はキーキーと理解の出来ない言葉をわめき続けていました。
会話を録音し、部屋の様子を写真に撮ったりもしていました。
そんなことして何になるんだろう・・・と思いましたが、それに対して、私が何か言おうものなら、何倍ものヒステリーとなって返ってくるであろうと思い、最低限の発言しかせずに眺めていました。

義姉達の言い分では、離婚して荷物をまとめに帰ってきた私達は、「住居不法侵入」なのだそうです。警察に突き出すとまで言われました。
例え離婚して籍を抜こうとも、家賃さえ払い続ければ、私達はそこに住み続ける権利があります。
そういうことを一切知らず、人を犯罪者のように言い、夜中にずかずかと押し入ってきた自分達は何様なのでしょう?
しかも、子ども達の学用品や、自分達の身の回りの物を持ち帰ることに関しても、無断で持ち出そうとして「泥棒と同じだ」とまで言われました。
こうの家族の間では、「ももは、こうを脅して勝手に離婚した上に、金品を持ち去る犯罪者だ」ということで、意見が一致しているようでした。
怒りをぶつけ続けて疲れたのか、言いたいことを言って少しすっきりしたのか、母達が帰ってから1時間くらいして、やっと義姉達が少し静かになりました。

私は一番奥の部屋に座るように言われ、ひーちゃんは私の隣にぴったりとくっついて座りました。
下の義兄は玄関への廊下を塞ぐ様に見張りに立ち、上の義兄はリビングから見張っていました。
自分達よりも10歳以上年下の私1人を相手に、いい年をした大人が4人で何を考えているんだろうと呆れてしまいました。

「じゃあ、今日来た用事のことを話そうか」と、やっとここからが本題のようでした。
まず、上の義姉が、バッグの中から紙の束を取り出しました。
「本当は、ばあちゃん(姑)達も来たかったけど、それは大変だから、私が代わりに預かってきた。」
(初めは、私1人を、義姉達と姑達の6人で囲い込み、責め立てる予定だったようです。)
「あんたは、よくもこんなに、ばあちゃん達のお金を使い込んでくれたねぇ。」
「全部、きっちり返してもらうよ。」
そう言われても、私には何も思い当たることはなく、義姉の言うことを理解出来ずにいました。
義姉は、そんな私にかまうことなく、自分の言いたいことを続けました。
「今日は、この分(紙の束をちらつかせながら)とかのお金を返済するっていう『誓約書』を書いてもらわないと、私達は帰れないんだから、さっさと済ませよう。」
「ばあちゃん達にも、『誓約書』を持って帰るって約束したから、あんたが書くまで帰らんよ。」
益々、何のことを言っているのか分かりませんでした。

「???」でいっぱいになっている私に、義姉は、「何に使ったか説明しろ」と、その紙の束に書かれてある年月日や金額などを、順番に読み上げていきました。
そこでやっと、何のお金かが私にも分かりました。
姑は、私とこうが結婚してから十数年間の、様々な振込み控えやメモをずっと束ねていたのです。
義姉が読み上げたものは、こうが転職を繰り返したり、病気で働けなかったり、自営業を始める際などに援助してくれたものの控えでした。
それを私に返済しろということだけでも、かなり驚きましたが、義姉の読み上げは、まだ続きました。

続いて読み上げられたものも、年月日や金額などから分かったのですが、子ども達が生まれた時に貰った出産祝いや、入学祝い、その他にも子ども達に使ったお金(誕生日プレゼントお小遣いなど)までもが含まれていました。
子ども達に関するものの控えまで残してあった姑の行為に、背筋が凍るような思いでした。
姑は、何年経っても、私を自分の息子の嫁として認めたくなかったのかもしれません。
きっと、最後まで、信用することも出来ないままだったのでしょう。
でも、姑にとって、慕ってくる孫達も信用の出来ない存在だったのでしょうか?
こうの実家へ行ったり、姑達が遊びに来たりした際には、私から取り上げるように抱いて離さなかったのに、あれは全て嘘だったのでしょうか?
舅の手前、可愛がっている振りをしていたとでも言うのでしょうか?
ニコニコとした笑顔を見せていた裏で、全ての出金の控えを束ねていっていたと思うと、やりきれない思いでいっぱいになりました。
私のことを好くは思っていなくても、孫達だけは可愛がってくれていると思っていたのに・・・。

私が一方的に離婚を申し出、義姉達や姑達の了承を得ないまま離婚届を出し、こうの家族の籍から抜けた時点で、私だけでなく子ども達までもが他人という認識しか出来なくなったのでしょう。
こうの家族は、誰もがかなり感情的になっており、冷静な判断が出来る者や、こういった行為を制止出来る者は、誰一人としていなかったのでしょう。


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<25>纏わりつく義姉達の執念 [過去から現在へ]

年末に書類上の離婚が成立しましたので、私と子ども達は、お正月を実家で過ごすことにしました。結婚前から13年の間に上の2人の出産時を除けば、たった1度しか、私と子ども達だけで実家へ泊まったことはありませんでしたので、こうに了解を得る必要もなく、子ども達を実家へと連れて行ってあげられることが不思議であるとともに、どうして、こんなことすら自由に出来なかったんだろうと改めて思いました。

両親は離婚直後であった私を、そっとしておいてくれましたので、何にも束縛も干渉もされることのない、ゆったりとした時間を過ごすことが出来ました。子ども達も祖父母と楽しいお正月を過ごすことが出来て、とても幸せそうでした。その時には、無事に離婚も成立したし、親権で揉めることもなかったので、私と子ども達の前途は、きっと明るいものだと信じて疑いませんでした。私は、やっと子ども達と新しい生活を始められるという安心感からか、すっかり油断してしまっていました。結婚時のことを考えれば、あのまま義姉達が黙って引き下がる訳などないのに・・・。

三が日が明け、1月4日の夜、引越しの荷物整理の為に、母と子ども達と共に、結婚生活を送っていたマンションへと戻ることにしました。私も母も、こうは実家へ帰っているものと思っていましたので、マンションへ着いた時に、部屋にこうがいたので少し驚きましたし、違和感を覚えました。いつもなら、休暇に一人で過ごせるような人ではなかったからです。

私達が帰ってきたことを確認すると、こうは誰かに電話を掛け始めました。初めはよく分かりませんでしたが、電話の様子から、義姉に掛けていることが分かりました。こうは電話を切ると、どこかへ行こうとするので、私も車を駐車場から別の場所へと移動させに行きました。その間、ほんの15分程度だったのですが、マンションへと帰ってきてみると、玄関の外にまで、怒声と泣き声が響いており、玄関を開けると、そこは修羅場へと変わっていました。

こうの実家や義姉達の自宅から、当時のマンションまでは、急いでも1時間以上かかりました。ところが、15分程の間に、義姉達夫婦が二組(四人)で乗り込んで来ていました。子ども達は、三人とも母にしがみついて泣き叫んでおり、一体何が起こったのか、瞬時に理解することは出来ませんでした。とにかく、大変な状況になっているという事実だけが、頭の中でグルグルと回っていました。

後に母から聞いたのですが、義姉達は、こうと私が家を出た後、少ししてからやってきたそうです。夜間だというのに、チャイムを鳴らし続け、ドンドン・・・・・・と玄関のドアを叩き続け、マンションの廊下で「早く開けろー!!」と大声を出していたそうです。母は私が帰ってくるまで待つべきか迷ったそうですが、余りにも近所迷惑になるので、仕方なくドアを開けると、ズカズカと部屋へと入り込み、部屋の中でも「もも(呼び捨てでした)を出せ!」とか「お前らは不法侵入だ!」とか怒鳴り散らしていたそうです。義姉達は、子ども達にも容赦なく怒鳴りつけたそうです。子ども達は、義姉達の常軌を逸した姿や言葉の暴力に怯え、泣き叫びながら母にしがみついていたのです。

私が玄関を開けた時に、こちらを見た義姉達の顔は、まさに鬼の形相でした。とてもじゃありませんが、まともな神経や常識を持ち合わせている人間の顔ではありませんでした。大人の私でも、ゾクゾクと背筋が凍るような思いでしたので、子ども達が怯えていたのも無理はありませんでした。母から簡単な説明を受け、状況が分かるにつれ、こうが、私だけでなく、子ども達も義姉達から酷い仕打ちを受けると分かっていながら置き去りにして、自分だけがねずみのごとく素早く、実家へと逃げ帰ったことに気付きました。

義姉達は、お正月の間に、みんなで策略を立てていたようです。お正月が明けたら、私達が荷物整理に帰ってくるだろうから、その機会を狙う為の連絡係りとして、こうを家に置いていたのです。そして、義姉達は、私達がいつ帰ってきてもいいように、自分達もどこか近くでずっと待機していたようです。義姉達の執念は恐ろしく深く、憎しみは限りなく大きく、人間がここまで鬼になれるものかと思わされました。

それにも増して、こうの情けなさ、自分だけが良ければ子ども達すら犠牲になってもいい、という態度に憎しみが湧きました。「子ども達と離れたくない」と離婚を拒否し続けていたのに、何故、子ども達だけでも守ってやることが出来なかったのでしょう。
大人の揉め事に、まだ小学生の子ども達を巻き込む必要があるのでしょうか?
それが、子ども達の心の傷となることが分からないのでしょうか?
こうにしても、義姉達にしても、これが40歳を過ぎた大人のする事なのでしょうか?
こうのした事は、自分へ火の粉が降りかからないように、私と子ども達を、義姉達に売り渡したも同然の行為でした。

子ども達は、私が抱きしめても怯えて震え、泣き続けていました。
「怖いよー!ママー、怖いよー!」と泣き叫んでいた子ども達の声は、今でも耳に残っています。
どんなに子ども達が幸せになってくれても、あの声だけは、忘れることは出来ないでしょう。

そういう状況下に子ども達を置くことは、本来、あってはならないことであると共に、母も心臓に病気を抱えていましたので、「用があるのは私だけだろうから、私さえ残れば、子ども達や母には関係ないから帰らせる」と言い、母に子ども達を連れて実家へと帰ってもらうことにしました。しかし、深夜で終電もなく、1時間以上かかる実家まで、タクシーで帰ってもらうしかありませんでした。

ところが、「さあ、帰ろう」という時になって、ひーちゃんが「ひーは、ママと残る」と言い出しました。私も母も、「どんな辛い思いをするか分からないし、ママはもう大人なんだから一人で大丈夫だよ」と何度も説得しましたが、頑として、私の側を離れようとはしませんでした。こんな小さな子どもでも、「ママを一人にするのは可哀相だから・・・」と私を守ろうとしてくれているのに・・・と思うと、余計にこうの行為が許せなくなりました。
どうしても、ひーちゃんが離れないので、仕方なく、母にはともちゃんとよしくんの二人を連れて帰ってもらうことにしました。

この後、起こったことに比べれば、ここまでは、序章に過ぎませんでした。


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<24>離婚成立(長かった月日) [過去から現在へ]

その後も、こうの態度はあやふやなままでしたので、これ以上、自分だけの力では、離婚話を進めることは無理かも知れないと思い、不本意ながら、母に「離婚したい」旨の報告をしました。母は、私の考えに対して、「自分の人生なんだから、子ども達のことだけを考えて、後は思うようにしなさい」と言ってくれました。離婚したい理由については、深くは追求することもありませんでした。後程、知ることになるのですが、実は上手くいっていないんじゃないのかと、何となく感じていたそうです。

こうに対して、母に相談したこと、母は「離婚には賛成の立場」であることを伝えました。どんどん逃げ場が無くなっていくことに、こうも精神的に追い詰められていたところはあるのでしょうが、それ以降、さらに私達に対して、冷たい態度を取るようになっていきました。

私は、てるや子ども達の支えもあり、何とか日々を生きていましたが、決して良い状態ではありませんでした。ベッドに横になっていても、天井が歪んで見えたり、天地がグルグルと回るような目眩が度々あり、吐き気がしたり倒れたりしていました。過呼吸症候群にもなっていたらしく、息が苦しくなり体中に血が回ってない感覚に陥り、そのまま意識が遠くなることもありました。

ある日の朝も、こうの態度に言い争いとなり、それによって具合が悪くなり、玄関の所で意識が朦朧としながら倒れ込みました。子ども達は「ママー!大丈夫ー!」と心配していましたが、こうは一瞥して「病院に行けよ」と冷たく言い放ち、私と子ども達だけを残して仕事に行ってしまいました。見ず知らずの人でも、誰かが倒れていたら救急車くらいは呼ぶでしょう。それなのに、「夫と父親の座」にしがみ付いているくせに、そこまで酷い対応しか出来ないのか、と情けない気分でした。私は、子どもが持ってきてくれたナイロン袋を使って(子どもの方が私への対処を分かっていました)、酸素の量を調整し、呼吸を整え、全身の脱力感を抱えながら這うようにしてベッドまで戻りました。

その頃、こうの行動に怪しいところがあったので、こうが眠っている間に、バッグの中身をこっそりと調べました。個人のプライバシーは守るべきだと思っていましたので、生まれて初めての行動に、多少の罪悪感を感じながら、一つ一つ調べていきました。電子手帳にも、携帯電話にもロックがかかっていましたが、バッグの中からは、女性からの手紙が数通出てきました。「離婚したくない!」と言い続けながら、こっそりと別の相手を探していたのです。それなら、きっちりと離婚してから、新しく遣り直せばいいのではないかという気持ちが込み上げてきました。バッグの中身を見たことは、こうには言いませんでしたが、離婚を早く進めるべきだと感じました。

私では、全く耳を貸さないので、こうには内緒で、私の母に離婚の説得に来てもらいました。こうは、帰宅時に母がいたので、かなり気まずそうでした。夕食が終わって、子ども達が寝てから、母はこうの説得を始めました。
「今のままでは、誰一人として幸せにはなれないこと」
「離婚したとしても、子ども達の父親には変わらないのだから、会うことが出来ること」
「娘は、一度決心したら、後に引かないことくらい分かっているだろうから、早くすっきりとして、お互いに新しい人生を踏み出した方がいいこと」
など、1時間以上に亘って、説得を続けてくれました。私に対しては、意地を張って耳を貸さなかったこうも、母の説得には、感じるところがあったようです。その日の夜、やっと離婚届にサインしてくれました。離婚を申し出てから、実に2年近い歳月が経っていました。こうを感情的にならせることなく、根気強く説得してくれた母には、本当に感謝しました。

私は、こうの気持ちが変わらないうちにと思い、翌日、急いで離婚届けを提出に行き、無事に受理されました。親権に関しても、私が引き取ることで話し合いがついていたので、家庭裁判所へも手続きに関しての相談に行きました。やっと、少しだけホッとしました。

離婚届が受理されると、本籍地(こうの実家になっていました)に、除籍の通知が届きます。突然、それが届いたことに驚いた姑と義姉が、こうを問い詰めたようです。それに対してこうは、私の母に説得されて離婚に応じたことを話した上に、そこまできても、こうは「本当は離婚したくなかった」というようなことを義姉達に対して言ったそうです。

それを知った義姉から、早速、電話がかかってきました。(かかるとは思っていましたが・・・。)
「ももさんは、私達に内緒で、上手く離婚出来たと思っているんだろうけど、こっちにも通知が届いているし、こうからも話を聞いたから、全部知っているのよ!」これが、義姉の第一声でした。
その後、義姉はネチネチと嫌味を言い続けました。そして、「離婚届は、こうの意思で書いたのではなく、ももさんとお義母さんに脅迫されて書いたものだから、無効にさせてもらう!」とまで言ってきました。そこまでして、誰かに何かいいことでもあるというのでしょうか?私は、話をしたくはありませんでしたが、その時の状況を説明し、「確かに、こうの自署であり、脅して手を持って書かせたとでも疑うのであれば、筆跡鑑定でも何でもすればいいでしょう。でも、そういう事実はないのだから、離婚を無効にすることは出来ませんよ」と返しました。

すると、義姉は、それまで「子ども達が可哀相だ」ということを盾にして、離婚を諦めさせようとしてきたにも関わらず、「別れるんなら、子ども達は3人とも、ももさんが引き取るんでしょうね。こっちの家に、子ども達を残していかれるのは迷惑だし、慰謝料も養育費も一円たりとも支払う気はないから、よく覚えておきなさいよ!」「じいちゃんもばあちゃんも(舅と姑も)同じ意見だから!」と言い出しました。同じ意見も何も、義姉のそれまでの行動パターンから考えると、義姉が姑達にもそう思わせるように、煽り立てたのでしょう。こうの家では、義姉と義姉のご主人の意見は、絶対的なものがありましたから、誰も反対意見などは言えなかったことでしょう。
結局は、子ども達が可愛いからでも、可哀相だからでもなく、『こう』のみが可愛くて、落ち込む弟を見ると私を憎く思い、私から離婚を切り出されたことが、世間体的にもかなり気に入らなかったのです。(こうから、離婚を申し出ていれば、義姉は私に離婚するように説得をしたことでしょう。)

こうの家族の非常識さは、十分に分かっているつもりでしたが、義姉の言葉には唖然としました。
ひーちゃんが生まれた時には、「初の内孫(本家の孫)だ」と喜び、ともちゃんに続いて、よしくんが生まれた時には、「本家の跡取りだ!」と自分達の物のような扱いでした。こうの実家へ行った時には、ミルクやオムツ交換の時以外は、私に触れさせない程だったのに、いざ別れるとなったら、思いっきり掌をひっくり返してきました。普通は、そこまで「本家の子ども」に執着している場合は、「あなたは出て行ってもいいけど、子ども達は残して行きなさい」というものだと思っていました。弟(息子)を捨てる私が憎いから、子ども達のことも憎くしか思えなかったのでしょう。

養育費などの件は別としても、義姉のこの発言は、私にとっては渡りに船でした。あんな家族の中に「たからもの」達を残して出ていくことなど、想像するのも嫌でした。その為に、2年近くも粘り強く、「親権は私が取る」という条件の離婚を、こうに説得し続けてきたのですから、義姉がそこまで言えば、こうは逆らえないので、親権の手続きもすんなりと進むであろうことに、逆にホッとしました。

でも、この電話の内容について、子どもに知られる訳にはいきません。それまで、好きだった祖父母にまで裏切られてしまったことを知ったら・・・また、どんなに傷つくかと思うと・・・「どうしたの?」と子ども達に訊ねられても、「離婚のことで文句言われちゃったよ~」と笑って誤魔化しました。

***追記(03.11. 23:10)***
確かに、離婚だけは無事に成立しました。
私も子ども達も、やっと、穏やかな自分達の生活が待っていると安心しきっていました。
でも、こうの家族達にとって、この離婚成立は屈辱以外の何物でもなく、素直に引き下がるような
人達ではなく、この後、予想も出来ないような展開へと移っていくのです。


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<23>義姉の干渉・涙の誕生日 [過去から現在へ]

離婚話も1年以上続けているうちに、こうは、私が本気であることを認めざるを得なくなったらしく、私の離婚への意志について、義姉達に相談したようです。義姉達へは、姑からも相談が為されていたようでした。こうが義姉達に、離婚や今後の事について、相談するのはかまいませんが、何故、その前にこう自身が、私と二人での話し合いに応じようとしないのかと、一層、こうを見下してしまうようになりました。

それまでは、義姉から電話がある時は、大抵が、自分達に都合のいい頼み事がある時か、私への苦情がある時だけでした。
私は、その日、朝一番に心療内科を受診し、今までとは違う薬を貰って帰ってきていましたので、早速、その薬を飲もうとした時に義姉から電話がかかってきました。10時頃のことでした。

その日の義姉は、私のご機嫌取りをするかのように、ワザとらしい猫なで声で話しかけてきました。それまでの義姉の態度からは、想像も出来ないような話し方に驚くと共に、気味の悪さを感じました。それだけでも十分不愉快でしたが、義姉は、「離婚したいと言っているらしいけど、子ども達のためにも考え直して、こうとやり直してみる気にはなれない?」と優しい口調で訊ねてきました。私は、「絶対にやり直す気にはなれないから、私じゃなくて、こうを説得して欲しい」と答えました。それでも、義姉は「でもね、ももさん。子ども達のことを考えてご覧よ。両親が離婚することは、子ども達が可哀相だとは思わない?」と子ども達を盾に使って、私の離婚を諦めさせようと必死になっていました。義姉の話は、30分経っても1時間経っても終わらず、「薬を飲みたいから電話を切らせて欲しい」と何度も頼んでも、「分かったけど、でもちょっと聞いて・・・」と、義姉から電話を切ってくれる様子はありませんでした。

義姉の電話によって、ストレスもどんどん溜まってきてしまい、それに耐えられなくなった私は、「お義姉さんが、何と言おうと絶対に離婚させてもらいます!こうの我侭な態度や色々なことに疲れて、病気にまでなっているんですから。」と言うと、猫なで声から一転して、義姉は、いつもの義姉の態度に戻り、私のことを責め始めました。

「こうが我侭だって言うけど、男なんてみんなそんなものなんだから、そのくらい我慢出来なくてどうするの!」とか「こうがお金を使って生活が大変だって言うけど、ももさんがちゃんと管理すれば問題ないことじゃないの!」とか、次々と義姉の本音が出てきました。「こうは、私の意見など聞く耳を持たないし、気に入らないとすぐに家出をしてしまうのに、どうやって私が管理したり出来るんですか?こうの我侭は常識の範囲を超えていますので、我慢することなんて出来ません!」と反論すると、義姉は烈火のごとく怒り始め、私への苦情を次々と怒鳴りつけてきました。

その義姉の態度に、ついに私のイライラも限界に達し、「もう、結構です。お願いですから、電話を切って薬を飲ませて下さい」「私がどれだけ体調が悪いか、これだけ言っても、お義姉さんには分かってもらえないんですか」と、私の方も、段々と敵意剥き出しの声になっていきました。そういうことを繰り返し言い続ける私に対して、今これ以上話しても無理だと思ったのか、やっと義姉は電話を切ってくれました。やっと終わったと思いながら時計を見ると、11時半を過ぎていました。実に1時間半以上に亘る電話でした。

それから、急いで薬を飲んでも、私は怒りや悔しさからくるストレスから、体の震えが止まらなくなっていました。いつもなら、てるが寝ている時間に電話をかけることはありませんでしたが、この時ばかりは、すがり付くようにてるに電話をかけました(当時、準夜勤でしたので、昼は寝ていました)。電話の向こうにてるの声が聞こえてくると、私は声を上げて泣くばかりで、何を聞かれても暫くは説明することも出来ませんでした。一泣きしてからやっと事情を説明し、てるに「そんな電話なんて、今度から相手にせずに切ってしまえばいいよ」「ももが責められることじゃないよ」というようなことを言ってもらい、泣きたいだけ泣かせてもらって、やっと落ち着きました。

こうが仕事から帰ってきた時に、「お義姉さんから電話があったんだけど」ということを伝えました。こうは義姉のしたことを、ごく当たり前のように聞き流しました。私は、いつものように、こうと離婚について話し合おうとしましたが、その日も、こうは私の話が聞こえないかのような態度で、話し合いに応じようとはしませんでした。

長い期間、離婚話を続けていることは、子ども達にもいい影響は与える訳がありません。
ひーちゃんは、時々、学校に行きたがらない日が出てきましたし、友達と遊びに出かける回数や、友達を家に呼ぶことも減っていきました。
ともちゃんは、精神的に随分と不安定になってしまい、ちょっとのことで私や姉弟に当り散らしたり、喘息の発作も、自宅での吸入だけでは治まらず、点滴が必要な程、酷くなってしまっていました。
よしくんだけは、まだ十分な事情は分かっていなかったようでしたが、それでも楽しそうにはしゃぐことは、段々と減っていきました。
三人とも、一様に表情が硬くなっていくのを見るのは、とても辛いことでしたが、当時の私には、子ども達を抱きしめてあげることくらいしか出来ませんでした。そして、子ども達に十分に接してあげられない自分を随分と責めました。

そんな中で、私は誕生日を迎えました。家から5分くらいの所に、美味しいケーキ屋さんがあり、誕生日などのケーキはいつもそこで買っていました。誕生日ケーキの予約には、お姉ちゃん達が行ってくれました。受け取りには、「ママのお誕生日なんだから、よしくんが行く!」と言ってくれ、ケーキ屋さんが見える所まで一緒に行くと、「ママはここで待っててね」と言い、私の方を振り返り振り返りしながら受け取りに行ってきてくれました。ケーキ屋さんから出てくると、大事そうにケーキを持って、嬉しそうに急ぎ足で、私の方へ向かってくる息子の様子に涙が零れました。私の所まで到着すると「よし、ちゃんとお姉さんに紙(予約券)をはい!って渡して、ケーキ貰ったよ~!」「ママの所まで走って行きたかったけど、走っちゃうとケーキが壊れちゃうと思ったから、走るの我慢したんだよ」と、自慢そうな息子が誇らしく思え、「ありがとうね」と言いながら、ぎゅーっと抱きしめると、とっても素敵な笑顔を見せてくれました。

いくら離婚話中でも、子ども達が楽しみにしている誕生日くらいは、こうも多少の気配りはするだろうと期待しましたが、期待はあっさりと裏切られました。子ども達が楽しそうにしているのに対し、こうは無言で食事をし、ケーキも義務のように流し込んでいるようでした。よしくんは、こうに対して、ケーキを受け取ってきたことなどを誇らしげに自慢していたのに、こうは、「お使いが出来て偉かったね!」と、たった一言、褒めてあげることすらしてはくれませんでした。褒めてもらえると思って話したのに、父親の冷たい反応に、落ち込む息子が可哀相で仕方ありませんでした。誕生日用のシャンパンも、形だけでもと、こうにも注いであったのですが、一度も口を付けることなく、食事が終わると、さっさとTVの部屋へと閉じこもってしまいました。

夕食などの片付けを終えてから、家庭内別居していた私の部屋で、残ったシャンパンを一人で飲み干し、次にワインを開けて、飲みながらパソコンに向かっていると、珍しくその部屋に、こうがやって来ました。そして、私からワインの瓶を取り上げ、残っていたワインをキッチンに流して捨ててしまいました。ムッときた私が「何するのよー!自分は私の誕生日も子ども達の話しも無視したくせに、どうしてそういうことをしないといけないのよ!」とこうに怒ると、いきなり頬を平手打ちされました。こうもストレスが溜まっていたのでしょうが、どうして私がぶたれなくてはならないのかと頭にきて、それに対してこうを罵ると、こうはまた家出してしまいました。子ども達は、突然の出来事に三人とも泣きじゃくっていました。

せっかく、朝から子ども達がケーキの準備や誕生日の飾り付けもしてくれて、久しぶりに笑顔で誕生日を楽しんでいたのに、それが、帰宅後のこうの思いやりのない態度によって、哀しい涙の誕生日へと変わってしまいました。


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<22>忘れていたモノ・・・(嬉しい涙) [過去から現在へ]

てるに対して、「仲のよい友達」以上の関係を、全く望まなかったと言えば嘘になります。でも、当時の私には、それ以上の関係を望む資格などはないと思っていましたし、せっかく築いた心地よい関係を壊したくはなかったので、『恋心』に気付いてしまった後も、出来うる限り平静を装いながら、てるとは『友達』として接していました。

ところが、その関係が変わる日は、突然やってきました。
いつもと同じように、何となく電話をしながらNBAのTV観戦をしていた時に、てるの声がいつもとは違う、とても真剣な感じに変わりました。「ん?どうかしたのかしら?」と思っていると、てるは少し間を置いてから、「好きだよ・・・」と呟きました。私は、兎に角、驚きました。てるからは、友達としか見られていないと思っていたので、想像したこともないくらい以外な言葉でした。でも、その言葉を聞いてしまうと自分の気持ちを抑えることが出来なくなってしまいました。そして、迷うことなく「私も・・・」と答えていました。(てるとネットで出会ってから一年弱が経った頃のことでした。)

電話の向こうで、てるも私からの返事に驚いている様子でした。
てるは、「自分は7つも年下だし、まだ離婚も成立していないから、告白しても無理だろうな」と思っていたそうです。それでも、「ダメだろうとは思っても、どうしても気持ちを抑えることが出来なかった。気持ちを伝えられるだけで良かったんだよ」と打ち明けられました。
私もてるも、「相手は自分のことを何とも思っていないだろう」と考えていましたので、二人で驚き合い、笑い合ってしまいました。

それから、遠距離恋愛が始まりました。
離婚話をしていたとはいえ、戸籍上は「妻」という立場でしたので、「不倫」と受け止められても仕方ありませんでしたが、それでも、私達の気持ちは深まるばかりでした。まるで、高校生の頃にでも、戻ったかのような純粋な気持ちで、てるを想っていました。でも、てるとの関係が、こうに知られてしまっては、新たな揉め事が起きるのは目に見えていましたし、離婚理由も「こうやこうの家族との関係の疲れ」から「私の不倫」へと摺りかえられてしまったことでしょう。ですので、細心の注意を払いながら、付き合っていきました。

支えてくれる人がいるという事実は、私を随分と救ってくれました。それまでは、自分の不調で手一杯で、私に心の余裕がなかったので、子ども達のことを「たからもの」だと思う気持ちに変わりはなくても、みんなを十分に抱きしめてあげることも、子ども達の話にゆっくりと耳を傾けてあげることも、あまり出来なくなってしまっていましたが、子ども達に対しても、少しずつ余裕を持って接することが出来るようになりました。

子ども達は、私の変化(特定の人と仲が良いこと)に何となく気付いていたようでしたが、そのことについて、特に私に問うこともなく、こうに対しては堅く口を閉じていました。それが、それまでの壊れていく私を見てきた、子ども達なりの思いやりだったのかもしれません。まだ小さな子ども達に、そこまで気を使わせてしまうような家庭環境しか作ってあげられなかったことは、今思い出しても胸に突き刺さるモノがあります。

てるは、アルコールが食事代わりだった私に、「ゼリー飲料栄養補助食品)でいいから食事を摂って欲しい」と言いました。てるに心配ばかりかけていたので、せめて、そのくらいは努力しようと思い、それからは、ゼリー飲料が私の食事になりました。TVのCMでは、「10秒(!?)チャージ」などと流れていましたが、当時の私は、そのゼリー飲料を一つ飲むのに、15分から20分はかかっていました。「食事を摂る」という行為が苦痛であったことと、ゼリー飲料を飲むことにすら疲れる状態だったので、それでも精一杯でした。そんな私に、てるは、「時間をかけてでも、飲めるだけでいいんだよ」と言ってくれていたので、その頃の冷蔵庫には、多種のゼリー飲料が山のように入っていました。

アルコールについては、簡単に止められるものではありませんでしたが、てるはそれを責めることはありませんでした。ただ、「少しずつ飲む量を減らしていこうね」と言ってくれました。
他にも私の心がリラックス出来るようにと、私の好きな本や詩集を買い求めてきて、電話でそれらを読んでくれたり、笑い話をしてくれたりと、いつも温かい心で包み込んでくれました。

一度は閉じ込めていた『恋心』だったのだから、てるが想ってくれるだけで十分過ぎるはずでした。てるが他の子を好きになることがあれば、いつでも別れようとも思っていました。でも、付き合いが深まるにつれて、いつの間にか、弱い私は欲張りになっていました。
ある日の深夜、電話で色々と話しているうちに、「嘘でいいから、一度だけでいいから、プロポーズの言葉を聞きたい・・・」と涙ながらに言ってしまいました。無理なことを言っているのは承知の上でした。てるを苦しめることになるかもしれないとも思っていました。それでも、少しだけ『夢』を見たかったのです。(今にして思えば、遠距離で不安になっていたこともあったのでしょう。)

てるからは「俺は、嘘のプロポーズなんて出来ない」と深刻な声で返事がありました。「ごめんね・・・やっぱり無理だよね」と言いながら、更に涙が零れてきました。でも、てるの返事には、まだ続きがありました。「もも、今から言うことは嘘なんかじゃないから、ちゃんと聞くんだよ」と言うと、「今すぐ結婚することは無理だよね。でも、俺はいずれはそうしたいと思っているよ・・・(以下、ヒミツ)」と本当にプロポーズをしてくれたのです。

本物のプロポーズをしてもらえるなどとは思っていなかったので、一瞬、時間が止まった気がしました。それに対して、何も言葉は出てきませんでした。ただ、それまでの涙とは異なる涙が、次から次へと溢れてきました。瞬きをすることすら忘れていました。ポロポロと零れ続ける涙が、頬をつたうときに、とても温かかったことだけは鮮明に覚えています。てるからの愛情によって、私の心から消えてしまっていた、『嬉しくて泣けること』の幸せを思い出しました。『嬉しい涙』が溢れるてくることが、幸せでもあり、不思議な感覚でもあり・・・で、プロポーズに対して何て答えたのか覚えていませんでした。(この記事を書くにあたって、てるに訊ねると、「泣きながら、ありがとうって言ってくれたよ」と教えてくれました。)

このことは、翌日、あゆだけに伝えました。
他にも、私達が付き合っていることを知っていた友達もいましたが、どのように伝えればいいのか分からず、理解してもらえるかどうかも不安で、伝えるのが、随分と後日になってしまいました。
あゆは、「ももちゃんはいっぱい苦労したんだから、その分も、2人で幸せになりなよ」と、自分のことのように嬉しそうに祝福してくれました。


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<21>心を軽くしてくれた友達 [過去から現在へ]

あゆと仲良くなるにつれて、少しずつお互いの悩みについても話し合えるようになっていき、あゆも離婚について話し合いをしているけれど、なかなか進展しない現状に悩んでいることなどを知りました。離婚を決意するずっと以前から、色々と悩むところがあったらしく、私と同じように「眠れない・アルコールが手放せない・・・」などの症状がありました。

あゆやてるとの関係も、それまでのネットを通してだけのものから、電話などでも頻繁に話しをするようになっていきました。趣味が同じだったこともありますが、相性が合うというのが一番大きかったのでしょう。あゆ、てるともに、まるで昔からの友達のように話が弾みました。そして、少しずつですが自分というものを出していけるようになり、「悩みを打ち明けてアドバイスを受け入れる」ということも出来るようになっていきました。そういった交友を持つことによって、それまで頑なだった私の心は、確実に少しずつ解け始めました。

決して意識してではありませんが、二人は、私が「自分の事を話せる」ようになるための、練習をさせてくれたように思います。そういう経緯があって、やっと近くの友達にも、現状について大まかな説明をしようと思えるようになりました。まずは、友達に電話を掛けることに勇気が要りました。電話が繋がると、初めの一言を切り出すのに、もっと勇気が要りました。実家の近くに住んでいる友は、心配して急いで顔を見に来てくれました。ちょっと離れた所に嫁いだ友は、「知り合いに同じ様な症状の人がいて、その人が掛かっている心療内科の先生が、結構いい先生らしいから、そこに掛かってみたらどう?」と受診を勧めてくれました。

同時期に、あゆとてるも、心療内科受診を勧めてくれていましたので、その友が紹介してくれた病院へ行ってみることにしました。行くことを決めたのはいいのですが、なかなか実行に移せずにいました。心療内科に偏見があったという訳ではなく、「病院へ行く」という行為自体が億劫で堪らなかったのです。その頃の私は、パソコンの前にいるか、ベッドの中で、電話をしたりボーっとしたりするのが、日常のほぼ全てでしたので、外に出かけるということが、もう苦痛となっていたのです。

それでも、友達が何度も勧めてくれるので、思い切って受診してみることにしました。
まず、初診時の簡単な項目記入があり、それ以外に、何ページにも及ぶアンケート(テスト!?)がありました。その時点で既に帰りたくなってしまいましたが、せっかく来たのだからとそれらに記入をし、看護師さんとの簡単な問診を済ませました。一仕事終えた気分になっていると、看護師さんから「診察まで2時間ほどかかりますから、他の所で待たれてて、帰ってこられたら、こちらへ声掛けしてくれればいいですよ」と言われ、気が遠くなる思いでした。病院という場所で2時間もじっと待つのは苦痛でしたので、電車で10分程の商店街へ時間潰しに行き、2時間後に病院へ戻りました。

それから、やっと診察が始まりました。担当医は、穏やかそうで物静かに話をしてくれる方でしたので、少し安心して、それまでの経緯や現状について、(時々、医師からの質問を受けながら)ゆっくりと話すことが出来ました。診断は、「鬱病でしょう」とのことでした。鬱病について、多少の知識はありましたし、自分でもそうじゃないかと思っているところがありましたので、診断に驚くことはありませんでしたが、医師から病名を聞いた時には、何となく不思議な気分でした。「鬱病は治る病気ですから、まずは軽めの薬から試していきましょう」ということで、薬を処方してもらい、帰りに書店で「病院で貰った薬が分かる本」のようなものを購入し帰宅しました。とても、長くて疲れた一日でした。

その頃から、私のてるへの感情に変化が見え始めました。何だか懐かしい感覚とでも言えばいいのでしょうか・・・「何となく気になる」「会話が楽しいだけでなく嬉しい」「ちょっと照れくさい」・・・久しぶりに感じた『恋』の気配でした。こんなにボロボロの状態でも、まだ、そういう感情を与えてくれたことを、神様に感謝しました。(いつもは余り信じていないのに、こういう時だけ信じてしまいます。)
でも、私は離婚問題で揉めている最中でしたし、幼少期からの積み重ねで鬱病に罹り、その上、3人の「たからもの」達の母親でした。7つも年下で、まだ20代のてるには、私がそういう感情であることは迷惑だと思いましたので、『恋心』は自分の中だけで大切に持っていようと心に決め、それ以降も、それまでと同様に接するように努めました。その時は、それだけで十分だと思っていました。

あゆとてる以外の友達も、私の心を軽くしていってくれました。前記事でもちょっとだけ書きましたが、改めて簡単に紹介させてもらいます。

『友1☆』は、NBA・F1・WGP(バイクレース)・バイクなど多岐に渡る共通の趣味がありましたので、それらの試合やレースを観戦しながら、『友1☆』のHPで「観戦チャット」というものをして楽しみました。趣味を共有し合うということ自体が、ネットを始めるまで余りありませんでしたので、とても楽しいことでした。『友1☆』は、電話をかけてきてくれたり、遊びに来てくれたりもしました。色んなバイクのカタログを沢山集めて送ってくれたり、レースを観戦に行った時の写真を送ってくれたり、本当によくしてくれました。

『友2☆』は、当時、沖縄在住だったので、キャンプに行った時などに、キレイな写真を沢山送ってくれました。「夕日の写真も欲しいなぁ」と伝えると、ちゃんと「夕日の写真」も撮って送ってくれるのです。チャットの遣り取りでも、メールでも、とても楽しい発言がいっぱいで、よく笑わせてもらいました。私は沖縄が大好きで、叶うのなら永住してもいいくらいに思っているので、『友2☆』の沖縄の話を聞くのが好きでした。有名な観光地ではなく、地元だからこその穴場なども教えてもらい、とてもワクワクし、さらに沖縄への憧れが募りました。

その他にも、今でも交流のある友達には、色々と楽しみを与えてもらっています。
☆スペイン大好きの友が、スペイン留学した時に買ってきてくれたお土産も素敵なものでしたし、お土産話も楽しませてもらいました。
☆自分のアパレル・ブランドを立ち上げて、頑張っている友もいます。何もないところから始めて、自分達でデザインとかを考えて、凄いなぁと思わされます。今年も購入させてもらいましたが、生地もデザインも素敵でした。(今度、ショップでも扱ってくれるようになったそうで、喜んでいました。)
☆資金運用に力を入れていて、色々とアドバイスしてくれる友もいます。その友とは、家族ぐるみの付き合いで、息子さんが1月で1歳になり、最近は「あひる歩き」が出来るようになったそうです。
☆私より、娘との年齢が近い友もいます。でも、何故か年齢のギャップをそこまで感じることなく、友達付き合いを続けています。(この友には、いつも囲碁でボロボロに負けますヾ(´▽`;))

ここに出てきた友達は、私がもう随分と長い間、忘れてしまっていた「笑うことの喜び」を思い出させてくれました。
落ち込んだ心も、友達と触れ合っている間だけは、とても軽くなっていました。
事情を余り知らない友もいましたが、それでも私が救われたことだけは確かです。
この場を借りて、友達に感謝の気持ちを贈らせてもらいます。

『みんな、今まで本当にありがとう!!そして、これからも宜しくね・・・。』


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<20>更なる悩みと友の存在 [過去から現在へ]

こうは、離婚話から、相変わらず逃げ回る日々でした。
ある日には、私の説得に対してうなずいてみたりもしますが、数日経つと、また「やっぱり嫌だ」と言い出す有様でした。話を聞く振りだけしておけば、そのうちに私の気が変わるかもしれないと思うところがあったようです。それまで、買ってもらったことのない花束を買ってきたりもしましたが、そんな物は、冷え切った心に届く訳がなく、私は離婚の話を繰り返ししました。

そんな生活を送っていた頃に、また一つの問題が起こりました。
こうが、世話になった会社が人員整理をするので、そのうちの一人を引き受けて雇うと言い出したのです。贅沢を控えれば楽に暮らしていけるだけの収入はありましたが、人を雇う程の規模ではありませんでしたので、当然、反対しました。貯蓄も底をついている状態でしたし、離婚問題も進まない状況なのに、今の時期にどうしてそういう行動に出られるのかと思いました。

しかし、こうは、「その人を引き受けてくれれば、仕事を増やしてくれるように、親会社によく頼んでおくから」という言葉で丸め込まれていました。そんな話はただの綺麗事であって、実際に仕事が増えるかどうかの保証などどこにもないのだからと説得しましたが、こうは、世話になったのに、断ることは出来ないと言い張りました。そして、勝手に面接の日取りを決め、さっさと雇うことに決めてしまいました。規模の小さい自営業者にとって、1ヵ月に20万程度の給与と夏・冬のボーナス(寸志程度でしたが)を支払うことは、決して簡単なことではありません。こうには、金銭感覚というものが欠如しており、お金は何とかなるものだという思い込みを持っていました。(それまで、私が何とかしてきたことと、家の為の資金を手にしてしまったのが、余計に悪い影響を与えてしまったのでしょう。)

思った通り、特別、仕事の量が増えることはありませんでした。しかも、こうは、貯蓄が底をついたことで控えめにはなりましたが、それでも贅沢を好むことに変わりはありませんでした。収入が多い月はギリギリ何とかなるのですが、少ない月には、借り入れをしなければ給与が払えない状況でした。その借入金に対して、今まで同様、こうは全く関与しようとせず、仕方なく私が工面してきました。今にして思えば、何てバカなことをしていたのだろうと思いますが、離婚や経済状態に関して両親にすら相談出来ない状況下では、子ども達を連れて家を出るという決意も出来ず、その時の私には、そうしてでも生活していくしかありませんでした。

こうに借入金のことを言っても、解雇しようとはしてくれませんでした。こうでは、埒が明かないので、渋々、姑に電話をかけ、人事のことを説明し、収入では人件費は出ず、借入金が増える一方だから、解雇するように説得して欲しいと話ました。「生活が成り立たないから」と懇願しているのに、姑は「でも、息子が決めたことだから…」というような返答しかしません。私は、「お義母さんが、そういう考え方をされるのなら、そちらで人件費を負担して下さい」と頼みましたが、それに関しては、「私達は支払う気はない」と返ってきました。親子揃って無責任な対応に込み上げてくる怒りを抑えながら、姑に対して「今度こそ、離婚させてもらいますから、覚悟しておいて下さい」と伝え、電話を切りました。(結局、雇用から1年が経った頃に、雇っていた人が「別の職を探すから」と言って自分から辞めてくれるまで、借入金で給与を支払う生活が続きました。)

離婚問題が進まず、その上に更なるストレスが重なり、自分一人で抱え込むことが苦しくて堪らなくなっていた頃に、私やてるが利用していたサイトで、あゆと出会いました。あゆは、さっぱりとした明るい人という印象でした。

私はそれまで、親友にも離婚問題を含む家庭問題や体調などについて、一切の相談を出来ずにいました。育った環境から、弱みを見せられない性格であった上に、幸せそうな親友に、そういう話をしてはいけないように感じてしまっていました。(そのために、後になって「どうして、もっと早く相談してくれなかったのか」と、かえって親友を傷付けてしまったことを申し訳なく思っています。)

ところが、あゆに対しては、彼女が私と同じように眠れない状況であったことや、顔の見えないネットということもあり、初めて、少しだけ「自分のこと」について話してみることが出来ました。それは、現状のごく一部に過ぎませんでしたが、それでも私にしては、すごく勇気のいることでした。その頃には、てるとも随分と仲良くなっていましたので、趣味以外のことについても色々と話し合え、てるにも、あゆに話したことと同じ内容の悩みを打ち明けました。2人に話したことによって、それまで、私の体中に纏わり付いていたストレスの紐が、少しだけ綻んだ気がしました。てるは、私とあゆを、いつも和ませてくれました。いつしか、てるとあゆの2人は、私にとってかけがえのない存在となっていきました。

2人以外のネット関係の友達も、色々な話題で楽しませてくれました。他愛のない内容の電話をかけあったり、素敵な写真が撮れたからと送ってきてくれたり・・・そういうことが、当時の私には、随分と救いとなりました。


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<19>ゆるがない離婚決意 [過去から現在へ]

私は、こうの言葉や態度で「愛されていない」ことを確信しました。
これ以上、悪循環を繰り返さないためにも、自分と子ども達を守るためにも、今度こそ「離婚」しかないと決意しました。

でも、離婚は私の意志だけで決めることは出来ません。こうは、私の結婚相手であったと共に、子ども達の父親には違いなかったからです。私は、こうが仕事に行っている間に、子ども達と「これからのこと」について話し合いました。

子ども達には、経済的な面など難しい話もしましたので、私からの説明を全部は理解出来なかったかもしれません。ただ、子ども達なりに思うところがあったようで、離婚については、「うん、いいよ」と、とてもあっさりと受け入れてくれました。それでも、母親から「離婚しようと思うんだけど、あなた達はどう思う?」と訊ねられることは、やはり複雑な気持ちであったことと思います。ひーちゃんとともちゃんは、「ママがこれ以上、辛そうにしているのを見たくないから、別れていいよ」「パパは、ママのことをちっとも大事にしてくれないもん」と言ってくれました。ただ一つだけ子ども達3人が共に望んだことは、「ママとパパが別れたら、ママと一緒に暮らしたい!」でした。そのことに関しては、最初から「夫にも父親にもなれない人」に「たからもの」達を残して出ていくことなど考えられなかったので、「みんな、ちゃんとママと一緒に暮らせるようにするから、心配しなくていいよ」と言うと、子ども達は一様に安心の表情を見せてくれました。

これで、私の離婚への決意はゆるがないものとなりました。
数日して、こうに「離婚して欲しい。子ども達は私が引き取る」と伝えました。こうは、ただ驚いていました。すぐには、私が何を言っているのか理解できない様子でした。こうからの返事は、「離婚する気などない」というものでした。何度、話をしても答えが変わることはありませんでした。

私はこうに訊ねました。「どうして離婚をしたくないのか」を。
こうから返ってきた言葉は、「子ども達と離れたくないし、一人になるのが寂しい」というものでした。そんな自分勝手な理由のために、私が体調を崩すまで耐え続け、その上で決意した「離婚」を拒否するというのです。しかも、私は離婚について切り出した時から、「子ども達の親権は私が持たせてもらうけれど、離婚しても、子ども達の父親であることに変わりはないのだから、いつでも子ども達と会っていいから」とずっと伝え続けていました。それなのに、こうは、「寂しいから」という理由だけを挙げ、一言も「みんなを愛しているから」とは言ってくれませんでした。それが分かっていたので自分から離婚を切り出したのですが、それでも、こうの言葉に、私の心は更に冷たく凍っていく気がしました。その後は、離婚の話になると、逃げられる(家出される)か無視されるかでした。(精神的に追い詰めらてしまっており、「家庭裁判所での協議離婚」などを考える余裕もありませんでした。それに、その手続きをしていたとしても、こうは協議からも逃げ回ったことでしょう。)

どこまでも、逃げることで済ませようとする、こうの態度によって、私の生活はより荒れたものとなっていきました。
食事どころではなく、ゼリー飲料栄養補助食品)を飲むことすら苦痛となりました。
睡眠に関しては、一日に1時間眠ることすら難しくなっており、30分程のうたた寝しか出来ないことも増えていきました。そこまでになると、たまにふっと意識がなくなり、30分くらいして気が付くとパソコンキーボードを叩いている途中で、そのキーボードの上に寝てしまっていることもありました。
アルコールも欠かせず、夜になると必ず手元にあり、朝まで飲み続けていましたので、食事ではなくアルコールで生きていたようなものでした。

持て余すほど時間がありすぎる私に、ささやかな楽しみを与えてくれたのは、皮肉にも、こうが導入したいと言った時に、「どうせ、すぐに飽きるんだから」と反対したインターネットでした。パソコン自体は仕事で使っていましたが、インターネットは手探りの状態でした。そこには、同じ趣味などに関して話し合える人達が待っていました。

私はプロフィールにも書いてありますが、「NBA」や「F1」などの観戦が好きです。それらについての意見や感想を遣り取りをすることによって、多少なりとも気持ちがほぐれました。ある人のNBAのサイトで、今でも交友が続いている大切な友を得ることが出来ました。そして、てるとも出会いました。てるは、サイトに現れる時間が私と重なることが多く、NBA以外の趣味の点でも多くの共通点があったので、話が弾みました。


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<18>壊れていく心 [過去から現在へ]

こうは、家出をしたり、自分の気分だけで子ども達を怒鳴ったりしましたが、自分が寂しい時には、子ども達に擦り寄っていく人でした。自分が、子ども達に対して悪いことをした分を、抱きしめたり褒めたりという「愛情」ではなく、物や旅行など「お金」で機嫌を取ることで埋め合わせようとしました。子ども達は、欲しい物を買ってくれたり、行きたい所に連れて行ってくれたりすると、当然ですが喜びます。こうは、その子ども達の喜びを「父親に対する愛情」だと勘違いしていました。私には、子ども達に対して、お金で何とかしようという考え方が分かりませんでした。自分がその様に育てられたので、そういう愛情表現しか出来なかったのかもしれません。

また、こうの浪費癖は、どこまでも続くかのように思えました。毎月のようにテーマパークに出かけ、旅行にも派手にお金を使いました。欲しい物があるとすぐに買い求め、食事も贅沢な食材を好みました。こうの要望に応えている間は機嫌がいいのですが、少しでも否定的な発言をするとすぐに不機嫌になりました。「家計が成り立たない」と言っても何とかなると甘く考えているようで、聞く耳さえ持ってはくれませんでした。ある程度の収入はありましたが、それだけでこうの贅沢を支えていける訳が無く、仕方なく、家のために貰った資金を取り崩して、こうの欲求を満たしていました。また、家出をされてやりきれない思いをするくらいなら、家なんて、もうどうでもいいと思うようになっていました。

それでも、どんどんお金が減っていく通帳を見ることは、かなり気持ちが落ち込むことでした。「こうに贅沢をさせる為に、貰ったお金じゃないのに…」と何度も思いました。この件については、姑達に対しても、申し訳ない気持ちになりました。
この頃には、こうと共に生活していくことは、私にとって苦痛以外の何ものでもなくなっていました。冷め続ける夫婦関係と相変わらずの姑や義姉達による干渉。「この人やこの家族と、一生やっていくことは出来ない」と思うようになりました。

余りにも圧し掛かってくるストレスの重みと積み重ねてしまったストレスの重みで、私は体調を崩していきました。

私の心は、徐々に食事を受け付けなくなりました。子ども達の為に作ることは作りましたが、どうしてもそれを口にすることが出来ません。無理に食べようとすると吐き気がしました。グリーンサラダゼリーなどなら、1日に一食くらいは食べられましたが、1ヶ月ほどの間に10Kgも体重が落ちてしまい、フラフラとするようになりました。
それと平行して、眠れなくなりました。一日に2,3時間も眠れれば、いい方でした。しかも、眠っている時間に誰かが起きていれば、誰が何をしていたかやTVの内容が分かるくらい浅い睡眠でした。
そして、アルコールが手放せなくなりました。昼間は、子ども達の手前もあり我慢していましたが、子ども達が眠ると朝までワインビールを飲み明かしました。飲んでいる間は、多少なりとも、ストレスや嫌なことを忘れることが出来ました。

そのような状態では、仕事に出ることも出来なくなりました。
その上、買い物依存の症状も出てきました。デパートでもスーパーでもとにかく色々と買ってしまうのです。買うという行為に満足するので、買った後は興味を失いました。こうの欲しがる物を買うことにも、抵抗が無くなってしまっていました。どうせ、こうが浪費しているのだから、私も子ども達の洋服とかぐらいは買ってもいいだろう、と自分を納得させていましたが、後で冷静になると、買い物の袋を見て後悔することの繰り返しでした。

そんな状況になっても、こうが私のことを心配してくれることはありませんでした。
「食べる気がないから食べれないし、眠る気がないから眠れないんだ!」と責められる有様でした。
こうの顔を見ることすら嫌になり、家庭内別居が始まりました。こうは、家庭内別居に対して、「何の不満があるのか」とイライラしていましたが、もう、こうの気持ちなど、どうでもよくなっていました。

そこまで、気持ちが追い詰められても、私は、両親に何一つ相談することが出来ませんでした。両親の前では「しっかり者のいい子でいなければならない」という思いが、私の心の中に強く根付いてしまっていました。今になって思うと、何てバカな思い込みに縛られていたのだろうと思いますが、その頃は、家庭が上手くいっている振りをすることばかりに必死になっていました。実家へ行っても、経済的にも問題がなく、夫婦仲もいい振りをしていましたので、嘘をついている後ろめたさから、更に自分を追い詰めることになり、実家への足も遠のいていきました。

子ども達だけが心の支えでした。でも、そんな子ども達には申し訳ないのですが、子ども達がいてくれても、私は時々『孤独』を感じていました。


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